jeanne-lully’s blog

ちょっと変わった元日本人がパリで思う事

ルイ14世が嫉妬したヴォー ル ヴィコント城の裏話

 フランスには有名なお城がいくつかありますが、パリ近郊にあるヴォー ル ヴィコント城は、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿をたてるキッカケになったお城。

 

 このヴォー ル ヴィコント城を建てたニコラ ブーケ(1615-1680)は当時の財務長官で、この城が完成した時に贅を尽くした祝宴を催して、国王であるルイ14世を招きました。

 

 ルイ14世は、宮殿を超えるほどの豪華さと洗練された宴に嫉妬して、フーケを横領の罪で投獄し、その後ルイ14世ヴォー ル ヴィコント城の建設に携わった建築家 ル ヴォー、画家 ル ブラン、造園家 ル ノートルの3人をそのままヴェルサイユ宮殿の建設に起用します。

 


投獄されたフーケが城に住んだのは、投獄されるまでの3週間だけ。

 

二度と城には戻れませんでした。

 

ここまでは割と信じられている有名なお話。

 


 ところが先日、パリに長く住む大先輩と話していたら、[ ヴォー ル ヴィコント城に行ったことある?

 

ルイ14世が嫉妬するほど凄い城だと思う?

 

 すでにロワール周辺にだって立派な城はあるし、ルイ14世ならあちこちの凄い物を見ているはずなのに、なんでヴィコント城に嫉妬するのかなぁ?

 


個人的にフーケが嫌いとかじゃないのかなぁ?]

と話していました。

 

 確かに城はそんなに大きくなく、ルイ14世のルーブル城(ルーブル美術館)の方が大きいのです。

 

 当時としては庭のスタイルが斬新だったかもしれないし、かつては城になかったダイニングルームが目新しい事など、ルイ14世にとっては新しいものが多々あった事でしょう。

 


 私はフーケがイケメン(私の個人的意見です)だった事もルイ14世が嫉妬した原因かと思っていたのですが、1661年の宴の時にルイ14世は23才でフーケは46才。

 

フーケがいくらイケメンでも、前途洋々の23才の国王が、部下の46才に嫉妬はしないでしょう。

 

 調べてみると、浮上したのは1人の男、コルベール 42才でした。

 

 コルベールはフーケのライバルで、フーケの失脚後にフーケのポジションの財務大臣となった人です。

 


この男性はラシャ商人の息子で、ルイ14世の宰相だったマゼランに仕えて頭角を現していったのでした。

 


この人がフーケの国庫横領をルイ14世に伝えていました。

 


そしてルイ14世とコルベールは、フーケを失脚させる機会をうかがっていました。

 


 実はヴィコント城の祝宴を盛大に行って、国王に敬意を表するように勧めたのは、なんとコルベールなのです。

 


ルイ14世が嫉妬するのを計算してのアドバイスだったのです。

 


 しかしフーケの横領の事実はあやふやなままで、横領の証拠を出したのはコルベールなのです。

 


 フーケの裁判中にコルベールは証拠をねつ造したという情報もありました。

 


フーケが行なった横領方法は、先代のマゼランも行なってきた手法。

確かに横領はしていたようです。

が、フーケは法務でも権力を握っていて、当時の法律でフーケを裁くのは不可能。フーケのやりたい放題を誰も止められない状態でした。

 


しかし、なぜフーケはこれほどまでにやり込められなければならなかったのでしょうか?

 


フーケは貴族出身で、弁護士として10代からある程度の地位につき、20才で政治家になりました。

 


かなり頭の良いエリートコースを進んだ人で、国王を脅かすほどの財力を手に入れ、野心家の面が強く出ていたようです。

 


そこで調べなくてはならないのは、当時の政治や宮廷の内情です。

 


まだ若いルイ14世のかわりに政治を取り仕切っていた宰相マゼラン。

そのマザランに仕えていたフーケは、マザランがフランス国外に亡命中に、マザランの財産を守り、その功績のおかげで財務大臣のポストを手に入れました。

 


1661年3月、マザランが亡くなってしまいます。

 


その年の8月に、フーケが城のお披露目のパーティーを開いた3週間後に投獄されました。

 


マザランが亡くなったと言う事は、後任の首相というか総理大臣のような政治を動かすトップが必要になるという事。

 


フーケはマザランの後釜を狙っていましたが、当時の王であるルイ14世は自ら政治を行うつもりだったのです。

 


そんな絶対王政に向かおうとしている時代の変わり目に、頭のキレるやり手、野心家のフーケは、ルイ14世にとっては脅威になりかねません。

 


そこに横領疑惑があるならば、フーケを消してしまうチャンスです。

 


確かにフーケの宴にルイ14世は軽く嫉妬をしたかもしれませんが、ホントは政治事情で投獄したのです。

 


しかし、なぜルイ14世の嫉妬が原因でフーケが投獄されたと一般的に信じられているのでしょうか?

 


ここからは私の推測ですが、フーケは多くの芸術家を庇護していて、その中には[ セミとアリ ]という童話で有名なフォンテーヌもいます。

 


そんな訳で、彼の投獄後に無罪を主張する芸術家達がいました。

 


その芸術家たちの活動は一般人に知れ渡りやすいハズです。

おかげでフーケは一般人に同情されていたのかもしれません。

 


それでヴォー ル ヴィコント城は、王が嫉妬した素晴らしい城ということになっていて、財務大臣が横領で建てた城だという人はあまりいないのではないでしょうか。

 


そもそも今となっては、フーケよりもルイ14世の方が知名度が高く、[ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てるキッカケになった城]といった方がイメージが良く集客にも良いのでしょう。

 


この城は個人所有なので、集客のためのイメージ戦略や企画は、他の国営の城とは違って魅力的です。

 

私は仮装の日に行った事があります。

(私は仮装をしませんでしたが、)

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ちなみに現在の城主は、フーケとは関係のない家系の人です。

 


知らなくても良い、歴史の裏側のお話でした。